わたし資産、徹底解剖!vol.3 身分は低いが豪商の分家に生まれた坂本龍馬。どんな「わたし資産」で国を動かしたのか?
2022年11月08日
TOPICS
- 豪商の分家で生まれ育ち、武術や学問だけでなく商いのセンスや金銭感覚も身に付けた
- 新しいものも抵抗なく受容できる好奇心を養った少年時代
- 豊富な知識と経験で本質を見抜く力を培い、オランダ語教師の誤訳を指摘するほどに
- 高いコミュニケーション能力と柔軟性で薩長同盟や大政奉還まで成し遂げた
本企画『わたし資産、徹底解剖!』では、歴史上の人物や架空のキャラクターなど、さまざまな人物の「わたし資産」にスポットをあて、それらを深掘りしながら「わたし資産」を増やすためのヒントやアイデアを見出してゆきます。
今回取り上げるのは、坂本龍馬。幕末の志士として絶大な人気を誇り、好きな歴史上の人物ランキングでは常に上位にランクイン。幕末をテーマにしたドラマや映画、マンガなどでも欠かせない人物の1人です。
※「わたし資産」とは、お金や家などの有形資産だけでなく、思い出や経験、知識といった無形資産も含んだ、私たち1人ひとりの固有資産を意味する、UI銀行オリジナルの言葉です。
泣き虫少年が日本を動かす志士に。今なお愛され続ける坂本龍馬の生涯とは
まずは、坂本龍馬の生涯をおさらいしましょう。1835年(天保6)11月15日、龍馬は土佐藩(高知県)で生まれました。坂本家は武士階級ながら農業や商業を営む郷士の家柄で、高知城下屈指の豪商・才谷屋(さいたにや)の分家。そのため坂本家は当時の武家としては比較的裕福で、龍馬は幼いころから「商い」のセンスや金銭感覚を身に付けながら育ったといわれています。
幼いころは気が弱く、泣き虫だった龍馬は、姉・乙女によるさまざまな指導を受けました。14歳で剣術を始め、19歳で江戸の千葉道場に入門。そのころ浦賀に来航した黒船を目撃した龍馬は、国際情勢や政治などに関心を抱き始めます。
28歳で龍馬は土佐藩を脱藩。このころの龍馬は、坂本家所有の名刀「肥前忠広(ひぜんただひろ)」をとてもほしがっていました。名刀は高値で換金できる実物資産でもあったため、龍馬はいざというときの金策用と考えていたのではないかともいわれています。のちに龍馬は兄からこの肥前忠広を譲り受けます。
脱藩後は勝海舟に弟子入り。薩摩の西郷隆盛、長州の桂小五郎らとも交流を持ち、1865年(慶應元)には日本最初の商社といわれる亀山社中(のちの海援隊)を立ち上げます。1866年(慶應2)、薩長同盟の締結を仲介。翌年には新政府構想である「船中八策」の起草にも関わったとされるなど、新しい国づくりに向けて奔走します。
1867年(慶應3)11月15日、龍馬は志半ばで、京都の近江屋で盟友の中岡慎太郎とともに暗殺されてしまいます。龍馬たちを殺害したのは京都見廻組の隊士とされていますが諸説あり、今でも多くの謎を残す事件です。
新しいもの好きで人たらし? 坂本龍馬の「わたし資産」とは
一介の浪人でありながら国を動かした、坂本龍馬の「わたし資産」にはどんなものがあるのでしょうか。
龍馬の「わたし資産」その1
幼少期に培った学問や武術、好奇心がその後の活躍のベースに
泣き虫で甘えん坊だった少年期の龍馬を厳しく指導し、鍛えたのは3歳年上の姉・乙女。文武両道の乙女は、龍馬に剣術などの武芸や学問を仕込みます。おかげで龍馬はその後、剣術の腕を磨き、剣豪としても名を馳せるほどに。龍馬は生涯、乙女を尊敬し、多数の手紙を送っています。
また、龍馬が12歳のとき、母・幸が他界します。父・八平の再婚相手・伊與の実家は廻船業を営んでおり、当主の川島猪三郎は「ヨーロッパ」というあだ名を持つ外国通。一説によると、龍馬は猪三郎から世界のさまざまな話を聞かされたそう。海外や未知のものに対する龍馬の好奇心は、このころに養われたのではないでしょうか。
また、こうした幼少期に培った学問や武術、好奇心が、龍馬の行動力のベースになっているのかもしれません。大人になってからも龍馬は、日本で初めてブーツを履いたり、舶来物のピストルを携行したりと、新しいものへの興味を持ち続けました。また、勝海舟の弟子となってからは、当時最先端だった海軍技術を学び、多くの知識人との交流を通じて、国内外のさまざまな情勢についてさらに知見を広げていきます。
龍馬の「わたし資産」その2
表面的な知識だけでなく、本質を見抜く力を培う
龍馬が20歳ごろ、授業中にオランダ語の誤訳を見抜いたというエピソードがあります。オランダの法律を原文で学ぶ授業を受けていた際、誤訳に気付いた龍馬が教師に指摘したところ、「お前はそんなにオランダ語が分かるのか!」と口論に。しかし、よくよく確認してみたところ、龍馬の指摘が当たっていたそうです。
当時最先端の学問であり、オランダ語の知識はそれほどなかったとされる龍馬が、なぜ間違いに気付けたのでしょうか。それは語学以前に、龍馬がオランダという国や政治思想について深く理解していたからでした。
このように、さまざまな経験や知識を通じて得た本質を見抜く力が、龍馬のその後の活躍に大きく寄与しています。何かを学ぶときには、表面的なことだけでなく、その本質を理解しなければならないことが分かるエピソードです。
本質を見抜く力は独創的な発想にもつながります。1867年(慶應3)ごろ、龍馬は後藤象二郎に、当時は江戸にあった貨幣鋳造機関を京都に移す提案をしています。江戸幕府が独占していた貨幣鋳造権を奪い新政府の管理下に置くことで、武力に頼らずとも経済的に幕府を追い込むことができると考えたのでした。貨幣鋳造による幕府の利益は大きく、それが長期安定政権を維持する基盤でもあったことに龍馬は気付いていたのです。
龍馬の「わたし資産」その3
どんな相手とも向き合える柔軟性とコミュニケーション能力
龍馬には人を惹きつける不思議な魅力がありました。初代内閣総理大臣となった伊藤博文は「どこへ行っても受け入れられる人物」と龍馬を評しています。海援隊には多くの同志が龍馬を慕って集まりました。西郷隆盛や桂小五郎、後藤象二郎など立場を問わずさまざまな人物と渡り合えたのも、どんな相手も虜にしてしまう魅力が龍馬にあったからでしょう。
師である勝海舟と龍馬の最初の出会いは、当初対立する政治思想の持ち主であった勝を斬るために屋敷を訪問したときでした。武力で外国人をやっつけ、鎖国を貫こうとする攘夷派の龍馬に対し、勝は世界情勢や開国の必要性などを語って聞かせました。これで龍馬は開国派に開眼、その場で勝に弟子入りします。勝の門下に入った龍馬は多くの人脈を手に入れ、さらに多様な知見を得ていくことになります。
意見が異なる相手でも、まずはその主張に耳を傾け、しっかり向き合う。そして共感できれば受け入れる。そんなコミュニケーション能力と柔軟性を龍馬は持ち合わせていました。のちに龍馬は、敵対関係にあった薩摩と長州を結び付けることに成功します。双方の立場をよく理解し、粘り強い説得でそれぞれの心を解きほぐしていったのでした。
まとめ
龍馬はさまざまな知識や経験を積み重ね、立場を超えて多くの人々と交流することで、本質を見抜く力や豊かな人脈といった「わたし資産」を増やしていきました。これは現代人にとっても大切な要素です。
未知のものに接することで、新しい知識を習得でき、物事の本質を見極める力も養われます。少年期の龍馬が継母・伊與の実家で見聞きしたものは「世の中には自分が知らないことがたくさんある」という好奇心や柔軟性を育んだことでしょう。
また、先入観や思い込みを排して物事に接することで、知見が広がります。龍馬が勝海舟との初対面で、勝の話を聞かずに斬ってしまっていたら、その後の龍馬の活躍はなかったかもしれません。勝の下で多くの人脈を得て行動範囲を広げ、さらに知見を広めていくことができました。
龍馬はよく「万事、見にゃわからん」「人の世に失敗ちゅうことは、ありゃせんぞ」などと言っていたそうです。何事に対しても先入観や偏見を持たず、そして失敗を恐れずにチャレンジする姿勢が、龍馬のように国を動かすほどの豊かな「わたし資産」を得ることができるのでしょう。
変化が激しい昨今、新しいテクノロジーや価値観が次々と生まれてきています。新しいものや未知のものに初めて触れるのは勇気がいることです。でも、まずは自らの先入観やこだわりを捨てて、「これはどういうものだろう?」「この人はなぜこんなことを言うのだろう?」と、向き合ってみてはいかがでしょうか。そこに今後の人生を豊かにしてくれる新たな発見があるかもしれません。
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株式会社UI銀行
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