わたし資産、徹底解剖!vol.1 多彩な顔を持つ戦国武将、伊達政宗の「わたし資産」とは?
2022年08月09日
TOPICS
- 弱冠23歳で奥州66郡30州を勢力下に治め、東北の覇者となる
- 幅広い教養と趣味を持ち、料理好き!「仙台味噌」や「ずんだ餅」の開発にもたずさわった?
- 人間味あふれる自筆の手紙や、自己演出力で幾多の危機も回避!
- 趣味や教養といった「わたし資産」は、人生のさまざまな場面で役に立つ
ひと口に資産と言っても、お金や土地、家など有形のものばかりではありません。知識や経験、健康、人脈など、その人しか持ちえない無形のものも含まれます。そんなお客さま1人ひとりのさまざまな資産をUI銀行では「わたし資産」と名付けて、さらに豊かにするためのお手伝いをしています。
本企画『わたし資産、徹底解剖!』では、歴史上の偉人や架空のキャラクターなど、さまざまな人物の「わたし資産」にスポットをあて、その人物から「わたし資産」を増やすためのヒントやアイデアを考察・提案します。
今回取り上げる人物は伊達政宗。好きな日本の偉人ランキングなどで常に上位に位置し、1987年のNHK大河ドラマ『独眼竜政宗』の平均視聴率は39.7%と歴代トップ。最近では戦国時代をモチーフにしたゲームやマンガに個性的なイケメンとして登場するなど、幅広い年代から人気のある戦国武将の1人です。
わずか23歳で奥州66郡30州を勢力下においた東北の覇者!
伊達政宗は1567年(永禄10)、出羽国(山形県)の米沢城で生まれました。幼名は「梵天丸(ぼんてんまる)」。政宗は幼いころに疱瘡を患い、右目を失明してしまいます。そのせいで幼少期の政宗はコンプレックスを抱えた内気な性格だったそう。一説によると、生母である義姫は、失明が理由で政宗を疎んじていたとも言われています。
そんな政宗を救ったのが高僧・虎哉宗乙(こさい そういつ)です。宗乙は幼い政宗に、武士としての心得や、五山文学や和歌などさまざまな教養を厳しく教え込みました。のちに文化人として幕府や諸大名、公家などにも一目置かれた、政宗の教養や美意識のベースは、この宗乙による手ほどきのおかげで養われたと言われています。
政宗は1577年(天正5)に11歳で元服し、15歳で初陣。18歳で伊達家の家督を相続して17代目当主に。政宗の名は伊達家中興の祖、9代政宗にあやかり、父・輝宗が名付けました。
伊達家の当主となった政宗は周辺の諸氏を合戦で次々と打ち破り、服属させていきます。家督相続時は30万石ほどであった伊達家の石高は、わずか5年余りで114万石にまで膨れ上がりました。その領地は奥州66郡30州(現在の宮城県南部、山形県南部、福島県中通り地方と会津地方)に及び、政宗は23歳にして東北の覇者となったのです。
江戸幕府成立後の政宗は仙台藩初代藩主として、仙台の発展に尽力。領内で新田開発を積極的に行ない、急激な人口増加を続ける江戸に回送して莫大な利益を得ました。政宗による努力のおかげで、仙台は今でも全国有数の米どころとして知られています。
多趣味で筆まめな文化人・伊達政宗の持つ「わたし資産」とは?
戦国武将として名を馳せる一方、政宗は和歌、茶道、能楽など幅広い趣味を持つ文化人でもありました。いくつもの顔を持つ政宗の「わたし資産」にはどんなものがあるのでしょうか。
政宗の「わたし資産」その1
食への深いこだわりで、現代まで続く食文化を形成
食通でもあった政宗は料理にもこだわり、自ら腕を振るうこともあったそう。江戸幕府3代将軍・徳川家光を接待した際には、全国津々浦々から美味・珍味を集め、献立もすべて政宗自身が考え、家光を感心させたといいます。こだわりとサービス精神あふれる政宗のフルコース、ぜひ食べてみたいですね。また、「仙台味噌」や「ずんだ餅」の開発にもたずさわったとされており、いずれも現在まで続く仙台を代表する名物になっています。
政宗の「わたし資産」その2
筆まめで達筆、親しみある文面の手紙で交流を深める
また、政宗は筆まめな武将でした。当時の武将たちは「右筆(ゆうひつ)」という代筆担当の秘書を抱えており、一般的に自筆のものはあまり現存しません。しかし、政宗の場合は、1000通以上もの自筆の手紙が現存しています。豊臣秀吉が約130通、徳川家康が約30通といわれますから、その桁違いの数に驚かされます。
諸大名や公家、文化人などとの交流の場にも積極的に顔を出していた政宗は人脈も豊富で、多くの手紙のやりとりをしています。手紙の中身は酒席での失態を詫びているものからラブレターまでさまざま。最近では、政宗が知人からもらった子猫を溺愛する内容の手紙が公開され、話題を呼んでいます。手紙の中で政宗は「大きなネズミを見事に捕らえた」「首輪がよく似合う」などと猫を絶賛。勇壮な政宗が子猫を愛でている様子を想像すると、なんだかほっこりしてしまいます。こうした手紙を通じて、政宗に親しみを感じた人は多かったのではないでしょうか。
また政宗は達筆で、その書は各方面で珍重されていました。政宗の書を掛物にする者もいたようです。美しい筆跡で書かれた手紙は、さまざまな場面で効果的に働いたことでしょう。
政宗の「わたし資産」その3
豊富な人脈と情報収集力、自己演出力で危機を乗り切る
1590年(天正18)、豊臣秀吉は小田原の北条氏征伐のため、政宗に参陣を命じますが、北条氏と同盟関係にあった政宗は遅れて参加し、秀吉を激怒させてしまいます。箱根に幽閉された政宗は、秀吉の家臣にあえて「千利休殿に茶の湯を習いたい」と懇願。
これを聞いた秀吉は「こんなときに茶の湯とは?」と政宗に大いに興味を抱き、呼び出します。政宗は髷を落とし、死装束で秀吉の前に進み出て、征伐に遅れたことを詫びました。このパフォーマンスで政宗は秀吉の心をつかみ、許しを得ることに成功したのです。
この政宗の大胆な行動は、秀吉が「派手好みで茶の湯好き」ということを事前に知り得た上でのことといわれています。筆まめで各方面の諸氏と交流を持っていたからこそ、そういった情報をキャッチでき、パフォーマンスに活かすことができたのでしょう。政宗は茶道の造詣が深かったことも功を奏し、一度は激怒させたはずの秀吉に大いに気に入られ、秀吉主催の茶会に招かれるまでになっています。
また大坂夏の陣のあと、政宗は徳川家康から謀反の疑いをかけられ、討伐の対象になりかけました。そのときも政宗と交流のあった家康の側室・於勝から事前にその情報をキャッチし、先手を打って家康の前で弁明、難を逃れています。
ひとつ間違えれば生死にかかわるような事態でも、政宗はその人脈と情報収集力、それを活かしたパフォーマンスで切り抜けています。これも政宗の持っていた「わたし資産」と言えるでしょう。
まとめ
伊達政宗は戦国武将でありながら、幅広い趣味と教養を持つ文化人の一面を持っていました。政宗が生きた時代は、動乱の戦国の世から平和な江戸時代に移行していく時期。武力だけではなく、人柄や人脈などによる政治が重要になっていく時代において、政宗の幅広い教養や趣味は幕府や朝廷、大名や公家たちとの交流に大いに役立ったことでしょう。
政宗は趣味や教養といった「わたし資産」を増やすことで、人とのつながりを深め、食文化や文化財など現在にまで続く大きな資産を残しました。自分の中にある「わたし資産」を増やすことは、より広く社会的な「わたし資産」を増やすことにつながる、ということを政宗は私たちに教えてくれています。
「曇りなき心の月を先立てて浮世の闇を照らしてぞ行く(暗闇の中、月の光を頼りに前へ進むように、先の見えない戦国の乱世を、自分の信念だけを頼りに生きてきた)」という政宗の辞世の句のように、先行きの分からない不安な時代において、お金だけでなく趣味や教養といった資産も蓄えておくと、人生のさまざまな場面で道を切り拓いてくれるかもしれません。いきなり趣味を見つけるのは難しいという方は、本を読んだり、美術館に行ったりと、日常生活の中で教養や美意識を高める習慣を取り入れてみてはいかがでしょうか。
企業プロフィール
株式会社UI銀行
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