わたし資産、徹底解剖!vol.8 日本人初のノーベル賞候補にもなった、北里柴三郎の生涯と「わたし資産」とは?
2024年04月02日
TOPICS
- 破傷風菌の純粋培養や、ペスト菌の発見などを行い、日本人初のノーベル賞候補にも
- 「終始一貫」した姿勢と、熱意と誠意で困難と闘い偉業を成し遂げる
- 功績だけでなくその信念が多くの賛同者を生む
資産とはお金や土地、家など有形のものだけではありません。知識や経験、健康、人脈など、その人しか持ちえない無形のものも大切な資産です。UI銀行では、そうしたお客さま一人ひとりの多様な資産を「わたし資産」と名づけて、さらに豊かにするためのお手伝いをしています。
本企画『わたし資産、徹底解剖!』では、歴史上の人物や架空のキャラクターなど、さまざまな人物の「わたし資産」にスポットをあて、それらを深掘りしながら「わたし資産」を増やすためのアイデアやヒントを考察・提案していきます。
今回取り上げるのは、新千円札の肖像画としても話題の北里柴三郎。破傷風菌の純粋培養や、ペスト菌の発見など世界的な偉業を成し遂げ、第1回ノーベル賞候補にもノミネートされた北里柴三郎の人生を紐解きながら、その「わたし資産」に迫ります。
第1回ノーベル賞候補にもなった、北里柴三郎ってどんな人?
北里柴三郎は1853年(嘉永5年)、肥後国(現在の熊本県)で生まれました。わんぱくで、武士になりたかった北里ですが、文武両道を重んじる両親はそれに反対。両親から武士ではなく医者になることを勧められ、18歳で熊本の古城医学校(現在の熊本大学医学部)に入学しました。
医学校でオランダ人医師・マンスフェルトに師事した北里は「衛生」の概念を学び、22歳のときに東京医学校(現在の東京大学医学部)に入学します。当時、日本ではコレラが大流行し、これまでの治療法が通用せず、多くの死者が出ました。北里は「医学の基本は、病気を未然に防ぐことにある」と確信し、予防医学の研究に生涯を捧げることを決意します。
1886年(明治19年)から6年間ドイツに留学し、ベルリン大学で細菌学者のローベルト・コッホに師事した北里は、1889年(明治22年)に世界で初めて破傷風菌の純粋培養に成功します。その翌年には破傷風の血清療法を開発し、ドイツの医学者、エミール・フォン・ベーリングと協力して論文を発表しました。この功績により北里は第1回ノーベル医学・生理学賞にノミネートされます。受賞したのはベーリングでしたが、北里の研究がそれを支えたことは間違いありません。
世界的に有名な医学者となった北里は欧米各国の大学や研究機関からの誘いを断り、帰国後は福澤諭吉などの支援で伝染病研究所を設立。1894年(明治27年)には、ペストの政府調査団の一員として香港に派遣され、ネズミの血液中からペスト菌を発見します。
大日本医師会(現在の日本医師会)の会長や、慶應義塾大学部医学科の学科長(のちの医学部長)などを歴任し、1931年(昭和6年)、脳溢血でこの世を去ります。享年79歳でした。
予防医学の礎を築いた、北里柴三郎の「わたし資産」とは
北里柴三郎の「わたし資産」①
どんな状況でも「終始一貫」を大切にする姿勢
北里の座右の銘は「終始一貫」、一度決めたことは妥協せず最後まで貫き通す人物でした。
そんな彼の性格を表す幼少期のエピソードに「光る縁側」があります。幼いころに預けられた伯母の家で縁側の拭き掃除を任された北里は、「どうせやるなら徹底的にきれいにしてやろう」と毎日一生懸命に雑巾がけを行いました。最終的には、伯母に「お殿様が来ても恥ずかしくない」とまで言わせるほどに磨き上げたといいます。
このように何事にも妥協せず取り組む北里は、どんな相手に対しても自分の意見をはっきり述べ、筋の通らないことには断固反対していました。そのため周囲とのいさかいも多かったといいます。
ときには、恩師である緒方正規の論文の不備を批判して母校の東大と対立し、「忘恩の輩」などと非難されたこともありました。しかしたとえ相手が恩人であっても、医学における正確さを大切にした彼の姿勢は、結果的に予防医学の基礎を築く一助になったといえるのではないでしょうか。
北里柴三郎の「わたし資産」②
「熱意と誠意」で困難に打ち勝つ
北里はドイツ留学中、のちに京都帝国大学総長となる荒木寅三郎を「人に“熱と誠”があれば何事も成就する。世の中は行き詰まらぬ。もし行き詰まったとしたら、それは本人に“熱と誠”がないからだ」と激励しました。これは、日本と欧米の格差が大きかった時代に、さまざまな困難を乗り越えてきた北里の、自身の研究への姿勢に対する信念でした。
北里は留学先で師事したコッホからは当初、「ドイツ語が得意な日本人」という程度の認識しか得られていなかったそうです。しかし、寝る間も惜しんで一心不乱に研究に取り組む北里の姿に、コッホのみならず仲間の研究者たちも、その熱意と優秀さを高く評価するようになりました。こうした北里の予防医学に対する熱意と、研究に対する誠実な態度があったからこそ、破傷風菌の純粋培養や、ペスト菌の発見といった世界的な偉業を成し遂げることができたのでしょう。
北里柴三郎の「わたし資産」③
信念に共感した多くの賛同者
北里の熱意と誠意は、多くの人々の心を動かしました。その中で最も有名な人物は福澤諭吉でしょう。ドイツ留学から帰国したものの、先述した東大との不仲などが原因で冷遇されていた北里に、福澤は「優れた学者がいるのに、何もさせないのは国の恥である」として、研究所の設立費用や研究費用を無償で提供しました。
こうして日本初の伝染病研究所が設立され、北里は所長として研究に打ち込みます。義理人情に厚く、筋が通らない話にはすぐ怒る北里を、弟子たちは「ドンネル先生(ドンネルとはドイツ語で雷の意味)」と呼んで慕いました。1914年(大正3年)に、伝染病研究所が内務省から文部省に突然移管された際、北里がそれに抗議して辞職すると、高待遇にも関わらず弟子たちも一斉に辞職しました。こうしたエピソードからも北里の人望の厚さがうかがえます。
また北里は多くの門下生を育成しました。その中にはのちに黄熱病の研究で大きな成果をあげた野口英世や、赤痢菌の治療法を確立した志賀潔などがいます。北里は賛同者に恵まれただけでなく、後世に人材を遺すことにも貢献しました。
偉大なるカミナリ親父、北里柴三郎に学ぶ「わたし資産」の増やし方
北里がさまざまな偉業を成し遂げた背景には、一度決めたらブレることなく徹底して地道な努力を続ける信念や、熱意と誠意といった「わたし資産」がありました。また、それらの資産が、多くの賛同者や協力者を生み出したことも特筆すべき点でしょう。
こうした北里の「わたし資産」は、医学界のみならず社会全体の資産へとつながり、現代の私たちの生活を支えてくれています。感染症の研究は自身が感染してしまうリスクと隣り合わせですが、その危険を顧みずに取り組んだ北里の偉業がなければ、今日の充実した医療体制は生まれていなかったかもしれません。
北里はよく弟子たちに「偉業を成し遂げるには基礎を固めることが必要だ」と説いていたそうです。私たちも人生で迷ったり、壁にぶつかったときは、この言葉に倣って「基礎」に立ち戻ってみてはどうでしょうか。自身の根本に立ち返り、自分の核となる「わたし資産」とは何かじっくり考えてみることで、道が開けてくるかもしれません。
サムネイル画像引用:国立国会図書館ウェブサイト
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